【西本願寺と東本願寺】
なぜ本願寺は東西で
分かれているのか?
京都駅近くにある二大寺院、西本願寺と東本願寺。
なぜ同じ名前のお寺が東西で分かれているの?と思っておられる方も多いかもしれません。
ここでは西本願寺と東本願寺が分かれることになった経緯を見ていきます。

それぞれの歴史を知ると、また違った拝観ができるかもしれません
西本願寺も東本願寺も元は一つのお寺だった
西本願寺と東本願寺の歴史をさかのぼると、元々は一つの「本願寺」というお寺でした。
「本願寺」の起源は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の遺骨を埋葬した「大谷廟堂(おおたにびょうどう)」になります。
ちなみに、大谷廟堂は親鸞聖人の娘の覚信尼(かくしんに)の居住地だったところで、現在知恩院の塔頭・崇泰院(そうたいいん)があるあたりだったと言われています。

以後、本願寺は北陸や京都山科に本拠を構えるようになり、第8世蓮如(れんりょ)上人の頃には戦国大名と同じくらいの勢力を有するまでになりました。
その後、第10世証如(しょうにょ)上人の頃に大坂石山(現在の大阪城があるあたり)に本拠が移されました。
本願寺分裂のきっかけを作ったのは織田信長
大坂石山で確固たる地位を築いた本願寺でしたが、第11世顕如(けんにょ)上人の頃には東から織田信長が台頭し、とうとう本願寺と織田信長の全面対決に入ります。


本願寺と織田信長の戦いは「石山合戦」と呼ばれています
当初、戦いを有利に進めていた本願寺でしたが、次第に戦況が不利となり、大坂石山を退去することを条件に織田信長と講和することになりました。
しかし、顕如上人の長男・教如(きょうにょ)上人は徹底抗戦を主張し、そのまま籠城することになります。
この行動により、教如上人は父・顕如上人から破門されてしまい、これが後の本願寺の分裂につながります。

西本願寺と東本願寺の誕生
石山退去後、本願寺は大阪の貝塚や天満へ移り、天正19年(1591年)には豊臣秀吉より七条堀川の地(現在の西本願寺がある地)を与えられ、そちらを本拠としました。

そして、とうとう顕如上人が亡くなってしまいます。
顕如上人の後継を誰にするかが問題となり、一時は長男の教如上人が引き継いだものの、反対の声があったため、豊臣秀吉の裁定により三男の准如(じゅんにょ)上人が本願寺を引き継ぎました。

門主の地位から引きずり降ろされた教如上人ですが、ここで転機が訪れます。
豊臣秀吉の死後、教如上人は徳川家康から烏丸六条の地を与えられ、本願寺から分離独立することになりました。
これにより、教如上人が建立した新たな寺院は「通称・東本願寺」、元々の本願寺は「通称・西本願寺」となり、現在に至っています。

現在、「本願寺」と名乗っているのは西本願寺の方で、東本願寺は正式には「真宗本廟」と言います
まとめ
以上、西本願寺と東本願寺が分裂に至った経緯を見てきました。
簡単に言うと、織田信長と講和したかった顕如上人と、徹底抗戦を主張する長男・教如上人の意見の違いが発端となり、江戸時代になって東西で分かれてしまったという流れになります。
ちなみに、西本願寺(浄土真宗本願寺派)の信者数は日本仏教界の中では一番信者数が多いとされ、令和6年の「宗教年鑑」によると)と、現在約771万人の信者数となっています。
一方、東本願寺(真宗大谷派)の信者数は689万人となっています。
西本願寺と東本願寺はいずれも宗派問わず、どんな方もウェルカムだそうで、ぜひこの機会に西本願寺あるいは東本願寺にお参りされてはいかがでしょうか?
西本願寺と東本願寺の見どころについて、下記にまとめてありますのでぜひ一緒にご覧いただければと思います。